揺らぎのなかで生きている

 

※トランス差別の描写を含みます。

 

 

 

 

好きな色は?と訊かれたら即答できる。青色が好き。濃く深い青色が好き。だから持ち物も青色で揃えることが多い。Bluetoothのイヤホン、タイルのピアス、ロルバーンの手帳、ボールペン。そして水筒。

そう、水筒。

 

本当に不意の会話だった。

会社の昼休み、休憩スペースで昼食を取っていた。隣には上長たちが2人いて、お互いの子どもについて話していた。その片方、おれの直属の上長(マネージャー)は、つい最近、娘におもちゃのスマホを買い与えたという話をしていた。「ちょうどね、のはるさんの水筒と同じ感じの青色なんだよ」と、おれの水筒を指さしていった。2人の会話の輪に入れられたという感じでも特になく、会話は2人だけで進んでいた。

「最近、娘が自分のこと“ぼく”って言うんだよ」とマネージャー。

(女の子が“ぼく”って言っても別に問題なくね?)と心の中で眉をひそめていたら、もう片方の上長は「へえ、青が好きで、“ぼく”って言うんなら、もうリーチですね」と笑って言った。

“リーチ”。はて、なんの?

 

 

 

おれは、自分を男の子だと思っていた時期がある。幼稚園に入るくらいまで、自分は男だと明確に“分かっていた”。今はないペニスも、成長すれば股から生えて来るものだと思っていた。だからスカートは意地でも履かなかったし、幼稚園の工作の時間に「女の子はピンクで、男の子は青色でこいのぼりを作りましょう」と言われて「絶対にピンクは嫌だ!!(だってそれは女の子の色で、自分は男の子だから)」と教室で大暴れして、ひとりだけ特別に青色でこいのぼりを作った。この頃から青色が好きだった。

 

これ以外にも、七五三の写真を撮るときに、短い髪の毛に可愛いピンクの花飾りをつけられたことが不快で、頭を全力で振って全て払い落としたり、ズボン姿の髪の短い幼いおれをみて母の友人は「最初は男の子だと思ってた」と言われたり。おれの「男の子」エピソードはたくさんある。

そんな頃もあったねえ、と姉とこの昔話をしたことがある。家族の間ではもう笑い種のようなものだ。次第に自分は男の子だという意識は薄れていって、普通の「女の子」のようにみえる、程度にまでは薄まった(ように見えている)。おれは「女の子」でも「男の子」でもなく、「性別:人間」のノンバイナリーなのだけれども。

問題は、その昔話をしていた時の、姉の不意のひと言だった。

「でもお母さん、心配だったと思うよ」

“心配”。はて、なんの?

 

 

 

上長たちの会話で“リーチ”の言葉が出た途端、そして2人でそれを笑っているのが分かった途端、記憶がぎゅぅんと巻き戻って、胃がぞっと冷えていくのが分かった。あ、まずいここにいてはならない、と明確に分かった。残りの弁当を口に無理やりつめてその場を立ち去って、トイレに逃げ込んで自分を落ち着かせた。ここは職場だ、と念じながらちょっとだけ泣いた。そのまま仕事に戻ったけれど、気持ちの急降下は帰宅中に来て、おれは電車の中で音もたてず声も上げずにマスクの下で泣いた。

 

 

この数年で、どうやら自分の性自認は「女」ではないらしい、ということが分かった。ノンバイナリーという言葉に出会えて、ようやく自分の違和感に名前がついた。そう、ノンバイナリー。「男」でも「女」でもない。

でも最近、それが揺れている。あれ、と違和感は不意にきた。唐突に。ドラマチックな何かがあったわけでもなく。

会社での会議中に、「おれは「男」として「男」が好きだ」とはっきりと思った。

え、え、え、?

その後の会議は上の空だったが、動揺を押しこらえたまま過ごした。そして今も、その揺らぎは小さくはなっているが消えてはいない。

 

上長たちの笑い話は、そんな矢先のことだった。言い逃れのできないトランスフォビアが真隣で起こっていて、そしてそれは直属の上長たちの間で起こっていた。ぞっとした。ここはおれにとって真に安全な場所ではないと思った。

 

これを信じてくれるひとが一体どれだけいるのだろう?おれの“今の”性自認、この揺らぎを含めて、理解してくれるひとはあの会社にいるのだろうか。

気のせいだよとか、そういうつもりでは言ってないんじゃない?とか、そういうことを言わずに、ただ、寄り添ってくれるひとが、いるんだろうか?

こうして書けば書くほど立ち上がってくる。逆説的に浮かび上がる。

「あの会社にそんなひとはいない」という事実がこうもおれを打ちのめす。

 

どうすればいいのだろう。全然わからない。カミングアウトしたところでどうなるというのか? 腫れ物に触るように扱われるだけでしかないと、何となく、周りの雰囲気で予想ができる。

 

 

立ち去るしかないんだろうか。

安全な場所だと思っていたけれど、やっと憧れていたところに来れたと思っていたけれど。

ここを、立ち去るしか、ないんだろうか。