揺らぎのなかで生きている

 

※トランス差別の描写を含みます。

 

 

 

 

好きな色は?と訊かれたら即答できる。青色が好き。濃く深い青色が好き。だから持ち物も青色で揃えることが多い。Bluetoothのイヤホン、タイルのピアス、ロルバーンの手帳、ボールペン。そして水筒。

そう、水筒。

 

本当に不意の会話だった。

会社の昼休み、休憩スペースで昼食を取っていた。隣には上長たちが2人いて、お互いの子どもについて話していた。その片方、おれの直属の上長(マネージャー)は、つい最近、娘におもちゃのスマホを買い与えたという話をしていた。「ちょうどね、のはるさんの水筒と同じ感じの青色なんだよ」と、おれの水筒を指さしていった。2人の会話の輪に入れられたという感じでも特になく、会話は2人だけで進んでいた。

「最近、娘が自分のこと“ぼく”って言うんだよ」とマネージャー。

(女の子が“ぼく”って言っても別に問題なくね?)と心の中で眉をひそめていたら、もう片方の上長は「へえ、青が好きで、“ぼく”って言うんなら、もうリーチですね」と笑って言った。

“リーチ”。はて、なんの?

 

 

 

おれは、自分を男の子だと思っていた時期がある。幼稚園に入るくらいまで、自分は男だと明確に“分かっていた”。今はないペニスも、成長すれば股から生えて来るものだと思っていた。だからスカートは意地でも履かなかったし、幼稚園の工作の時間に「女の子はピンクで、男の子は青色でこいのぼりを作りましょう」と言われて「絶対にピンクは嫌だ!!(だってそれは女の子の色で、自分は男の子だから)」と教室で大暴れして、ひとりだけ特別に青色でこいのぼりを作った。この頃から青色が好きだった。

 

これ以外にも、七五三の写真を撮るときに、短い髪の毛に可愛いピンクの花飾りをつけられたことが不快で、頭を全力で振って全て払い落としたり、ズボン姿の髪の短い幼いおれをみて母の友人は「最初は男の子だと思ってた」と言われたり。おれの「男の子」エピソードはたくさんある。

そんな頃もあったねえ、と姉とこの昔話をしたことがある。家族の間ではもう笑い種のようなものだ。次第に自分は男の子だという意識は薄れていって、普通の「女の子」のようにみえる、程度にまでは薄まった(ように見えている)。おれは「女の子」でも「男の子」でもなく、「性別:人間」のノンバイナリーなのだけれども。

問題は、その昔話をしていた時の、姉の不意のひと言だった。

「でもお母さん、心配だったと思うよ」

“心配”。はて、なんの?

 

 

 

上長たちの会話で“リーチ”の言葉が出た途端、そして2人でそれを笑っているのが分かった途端、記憶がぎゅぅんと巻き戻って、胃がぞっと冷えていくのが分かった。あ、まずいここにいてはならない、と明確に分かった。残りの弁当を口に無理やりつめてその場を立ち去って、トイレに逃げ込んで自分を落ち着かせた。ここは職場だ、と念じながらちょっとだけ泣いた。そのまま仕事に戻ったけれど、気持ちの急降下は帰宅中に来て、おれは電車の中で音もたてず声も上げずにマスクの下で泣いた。

 

 

この数年で、どうやら自分の性自認は「女」ではないらしい、ということが分かった。ノンバイナリーという言葉に出会えて、ようやく自分の違和感に名前がついた。そう、ノンバイナリー。「男」でも「女」でもない。

でも最近、それが揺れている。あれ、と違和感は不意にきた。唐突に。ドラマチックな何かがあったわけでもなく。

会社での会議中に、「おれは「男」として「男」が好きだ」とはっきりと思った。

え、え、え、?

その後の会議は上の空だったが、動揺を押しこらえたまま過ごした。そして今も、その揺らぎは小さくはなっているが消えてはいない。

 

上長たちの笑い話は、そんな矢先のことだった。言い逃れのできないトランスフォビアが真隣で起こっていて、そしてそれは直属の上長たちの間で起こっていた。ぞっとした。ここはおれにとって真に安全な場所ではないと思った。

 

これを信じてくれるひとが一体どれだけいるのだろう?おれの“今の”性自認、この揺らぎを含めて、理解してくれるひとはあの会社にいるのだろうか。

気のせいだよとか、そういうつもりでは言ってないんじゃない?とか、そういうことを言わずに、ただ、寄り添ってくれるひとが、いるんだろうか?

こうして書けば書くほど立ち上がってくる。逆説的に浮かび上がる。

「あの会社にそんなひとはいない」という事実がこうもおれを打ちのめす。

 

どうすればいいのだろう。全然わからない。カミングアウトしたところでどうなるというのか? 腫れ物に触るように扱われるだけでしかないと、何となく、周りの雰囲気で予想ができる。

 

 

立ち去るしかないんだろうか。

安全な場所だと思っていたけれど、やっと憧れていたところに来れたと思っていたけれど。

ここを、立ち去るしか、ないんだろうか。

この身体の中に巣食っていく怒りを いつも上手に吐き出せない

時系列ガン無視でトピックで書き殴った。誰かに読ませる文章ではない

 

・出張

急に出張が決まり、慌ただしく準備をして向かった。同行者は年上の後輩(男性)。ひとりではなく同行者ありだから、食事を共にしなければならない。年上の後輩という微妙な立場であるが、年も近い方だし、気軽に話せる相手だから特に気にはしていなかった。

ただ、食事の度に「出させてください」とおごられて、なんだかなあという気持ちがあった。出張にいくと、日当がでる。大体は出張中の食事代と土産代で消えるが、工夫すれば手元に残る。同行者はまだ小さい子どもがいるし、これから先しばらく出張が続くという。その日当は家族のために持って帰れよ。こんな言い方じゃないが同じ意味で伝えたが、それでも、という感じだった。そこまでして奢られる理由などない。なんだかなあという気持ち。

男性に食事代を出される度に、出させてもらえたとしても少ない額になる度に「それはどういう意味ですか?」と訊きたくなる。おれが「女」だから? それとも年下だから? 詰め寄って吐かせたい。そして「女」だからと言われた瞬間にブチ切れて顔を殴りたい。しねと吐き捨てたい。そういう欲望がこの身体の中で渦巻いていることを、わかっている。

 

・期中面談

もう年度も半ば。期中面談を行うとのことで、ボスとマネージャーとチーフとの期中面談があった。面談前の雑談として、マネージャー(男性)が家では年下の妻の尻に敷かれているという話があり(尻に敷かれているのではなく、マネージャーにデリカシーがないからそうなってんだろうなと思っている)チーフ(女性)から「こういう夫婦関係もあるからさ、今後の参考にしなよ」と言われた。瞬時に「ッす!」みたいな返事をしたが「実はおれ、結婚したくないんすよね~~~」とでも言ってやればよかったんか。

先月の頭に行ったチームの飲み会で恋とか愛とかの話になったとき、「そういうの間に合ってます」と言ってしまったからだと推測される。この「間に合ってます」は、もうすでに相手はいるから間に合っている、じゃなくて、そもそも必要としていないから間に合っている、という意味だったのだけれども。まあ「「「普通(←皮肉を込めている)」」」は前者で取るよなとも思う。

人類、あたり前のように全員結婚すると思われていることが苦痛だし、ヘテロだと思われていることも苦痛だ。そして目の前の人間がシスヘテロではない可能性を想像もしていない相手に疲れてしまう。へえ、そうか、そうなんだ。そうとしか考えられないんだね、みたいな感じで。でも仕方ないじゃん、と考えてしまう自分にもうんざりする。何も仕方なくなどない。何も知らないのはそっちだろ。お前らが学べよ

 

 

 

・先輩の産休

チームの要となっていた先輩が、来年2月を目処に産休に入るという。それに伴って、いくつか仕事を引き継ぐこととなり、新しく覚えなければならないこと(結構責任が重い)がどどんと増えてきた。

先輩のご懐妊、なんとなくわかってはいたよ。だって在宅がずっと続いているし、たまに出てきてもゆるっとした服装をしているから。先輩が抜けること、そして来年からひとりで色々やらねばならないことにドキドキしている。怖いな、と思う。先輩に頼れないなら誰に何をどう伝えて頼ればいいんだ? 頼るというよりは泣きつきか。ぐう

しかもどうやらそれとはまた別に人が減り、来年度から仕事量が、ぐっと増える様子。どちらも結構責任が重い分類だ。「何か不安なことはある?」と、おれに先輩の産休を告げたボスに、最後のまとめとして訊かれたが、①雇用契約はこのまま有期契約社員なのか。②来年度、年収はどれだけ挙げてもらえるのか。以上2点がとても気になる。が、なんだか話せる雰囲気ではなく「今のところ大丈夫です」で済ませてしまった。上長たちに年収の話とかあまりしたくないな、と思う。迫りたくないのだ。で、お金は?というところ。おれの生活と人生がかかっているけれども

 

 

・祖母の誕生日

出張準備や出張ですっかり忘れており、当日朝の母からの連絡で気づいた。そういえばそうだった。慌てて青山フラワーマーケットのオンラインで花を注文する。夕方くらいにビデオ通話をしてほしいと言われていたので、ほどよい時間に、母宛てにビデオ電話をする。

10月に冬物を取りに帰省したから、特に久しぶりというわけではなかった。近況を話し、出張の話をしていたはず(2日間、ずっと話していたので帰ってきたら喉が枯れていた、など)なのに、何の文脈もなく、いきなり祖母から「ひ孫がみたい」と言われて、素で「は?」と言ってしまった。

「甥がいるだろう」と言ったら「お前のひ孫がみたい。祖父さん(10年以上前に他界している)への手土産がないじゃないか」と返され「何を贅沢なことを言っているんだ。甥で十分だろう」と言ったら、画面の向こうにいる母の方をみて「なんか言ってるぞ」と揶揄われた。老人は耳が遠いことを理由に、時々こういうことを言う。何なんだ。それ以上話したくなかった。通話を切る際の、母のなんとも言えない表情が印象に残っている。

「ばあちゃん、それはおれに死ねって言ってるのと一緒だよ」

そう言ってやればよかったのか。

 

ビデオ通話を切った後、父方の祖母のことを思い出した。昨年、会いに行ったときに、いい人はいるのかなんて一切口に出さず、「仕事はどう?続けられそう?」と話してくれたのがとても嬉しかった。姉の結婚式で会った時も、おれが大学院に進学したことを否定せず、むしろ「昔からあなたは勉強すると思っていた」と言って肯定してくれて、「これで本を買いなさい」と封筒を渡してくれたこと、とても大事な思い出としておれの中にある。

2人とも同世代で、同じように地方の田舎出身だ。それだというのにこうも違うものなのか。まあ父方の祖母はその年代の「女性」では珍しく運転免許証を持っているし(割とつい最近まで自分で運転していたらしい。マジかよ祖母ちゃん)めちゃくちゃお喋りだし(電話口でひとりで10分くらい話す)本をたくさん読むひとだから(部屋に月刊の『文藝春秋』が積まれているのを見た)そういう違いもあるのかもしれないけれど。

 

母方の祖母の人生に思いをはせる。そしてその娘として生きてきた、母の人生にも。姉の人生にも思いをはせ、おれ自身の人生にも思いをはせる。この国の過去の「女」たちの人生、生活、政治、戦争、教育にも思いをはせる。

 

母方の祖母は幼い頃に両親を亡くして、姉弟で生きてきたという。多分、必要最低限の教育しか受けておらず、狭い範囲で生きてきた。考え方も、コミュニティも、行動範囲という意味でも。「女」は結婚して子どもを産むのが仕事で幸せである、という社会から刷り込まれた「正しい価値観」を90歳になった今変えろと言われても無理なこともわかる。でも祖母ちゃん。おれさあ、結婚したくないし子どもも産みたくないよ。どうにか頑張ったらやれるのかもしれないけどさあ。それはおれに死ねって言ってるのと一緒だよ。おれの「したくない」って気持ちを殺して生きろってことだよ。心がズタズタにされるんだよ。嫌なんだよ。できないんだよ、したくないんだよ。知っちゃったからさ。それがどういう意味になりえるのかってことを。

しばらく実家と連絡を取りたくないなあと思っていたら、姉に出張土産を渡しに行ったときに母からまたビデオ通話がきた。誕生日の花が届いたという。嬉しそうに花束を抱えて、祖母に礼を言われたけど生返事だった。自宅でひとりの際に取ったら、なんか変なことを口走っていたかもしれない。姉さんがいるときでよかったなと思う。ああ、ちなみにこれは姉が理解者であるという意味ではない。

 

・資格の勉強

3月に受けたものの、見事惨敗。むしろあの勉強量でよくあの点数が取れたよなと感心するレベルだった。期中面談のとき、上長たちに「12月に試験を受ける」と言ってしまったので、勉強を再開させたが、何度読んでも何度やっても、テキストの言っている意味が本当の意味で理解ができない。試験というものが苦手で、こういう暗記系の勉強や振り返りが苦手だということ、おのれの頭の悪さに気分がふさいでいき、勉強しようとコメダ珈琲に入ったのに、結果くどうれいんの「うたうおばけ」を読んで逃げた。あ~あ どうにもならない気がしてきた。もう何もかも駄目なのかもね

 

・ガザのこと

報道を見る度に、ぞっとする。この同じ社会の中で虐殺が行われているというのに、SNSにはいつもの日常が流れていて、そんなものはないと言わんばかりのキラキラした情報が溢れている。会社の近くには例の国の大使館があり、ここ1ヶ月、警備のためか警察車両がずっと路肩に停まっている。その台数も、ある時は減り、ある時は増える。会社では誰も話題にしないということも怖い。すぐ近くで起きていることだというのに。

実は、慌てて行ったその出張先は三重県、何なら伊勢だった。滅多に行ける距離ではないし、伊勢神宮に行ってみようと話になった。時間が無かったから外宮の方だけみた。樹齢ウン100年の木々たちが太陽の陽を遮っていて、境内の空気は冷えていて、とても物静かだった。同行者は「なんかメッチャ空気変わりましたね。神聖な感じが……」と言っていたが、陽が遮られるのだから空気が冷えるのは当たり前では?と思って「そうっすか?」と適当な返事をした。

境内の脇に人工的な施設があり、それがどういう意図で建てられたものなのかの説明書きがあった。我々と何も変わらない人間に対して、明らかにビジネスでも使わない、神だとかの上位存在に使われる尊敬語がつらつらと使われていて、ああ、と思った。人間ではなく、神に使われる尊敬語。それだけで、ここがどういう「スタンス」であるのかがわかる。この神話の、この延長線上に差別と虐殺がある。命を選定すること、命に優劣をつける考え方、「血」に価値を置く、その社会的な文脈。この先にあるものが、あれなのだと理解した。

出張準備に気を取られていて、よく調べずに行ってしまったという後悔もある。帰ってきた後に簡単に調べてみただけで、ああ、出て来るでてくる。おれの存在を否定する文章やらなんやら。はあそうですか。大層なことですね、とも思う。もう2度と行かないだろう。

 

 

・ハラスメントセミナーへの“ご意見”

社内で行われたハラスメントセミナー、大々的な告知をした割には「この程度か」という内容だった。セクハラに関しては、シスヘテロ恋愛至上主義の場面しか想定されておらず、おれは存在しないもの、想定さえされていないものでしかなかった。い、居場所がねえ~~と思ってちょっと泣いた。受講後はぐったりした。

透明化されるのは我慢ならない、書かねばならないと思って意見文を書き、匿名で提出した。きちんと受け取られたのだろうか、おれの意図する意味で。誤差が生じていないことを、祈るしかもうできない。

せめて最後の一文、皮肉と軽蔑と怒りを優しく包んで書いてやったあの一文が、読んだ相手に伝わっていますようにと思う。

 

20200627

2020年6月27日、おれは大学院の修士課程にいて、2年目だった。新卒入社した民間企業を辞めて、転職はせず大学院への進学を希望したのが、この日の1年半ほど前。転職はしない、大学院へ進学したい、フェミニズムジェンダーを学びたいと家族に話した時、母ははっきりと「それを勉強して、”どう”したいの?」と言った。

”どう”したいのか?そんなこと、当時も今だってわからない。ただ、あの会社で働いていて、ずっと息が苦しかった。どうしてこんなことを言われなくてはならないのか、どうしていきなり怒声を浴びせられないといけないのかが分からなかった。そして、どうしてそれを周りは平然と受け入れているのかが分からなかった。

分からなかったから、知りたかった。本当のこと、あの時自分の目の前で何が起きていたのか、自分の身に何が降りかかっていたのかを知りたかった。その背後にある「正体」を。

 

そうして中身を覗いて、自分はどうやら「普通」ではないということが、明確に分かった日。これまでの違和感に説明がついた日。そうして突きつけられた、自分は「普通」ではないという「正体」を知った日、それが2020年6月27日。

これは、その日の日記。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2020年6月27日

 

自分の性的指向をチェックできる、という診断サイトがある。それを最近やって、自分の指向というのを見てみたのだけれども、納得が出来たところが大きかった

 

でも、なんだか息苦しいのだ。なぜだろう。

 

Xジェンダーと言われて、ははんと思った。トランスではないとは思っていたが、そうか、Xなのか。

 

自分の表現したい性、というのでノンバイナリーが出てきた。男でも女でもない、という。これが一番しっくりしたな

 

ヘテロじゃないとずっと分かってたけど、自分は普通じゃないのだと分かってしまって、孤独感を深めているのかもしれない。

 

わたしは普通にはなれないな。

何の疑問も持たずに恋愛をして結婚することも、子どもを産んで育てることもできない。世間でいう普通と当たり前の方向にいけない。だって疑問を持って、それを気持ち悪いと思ってしまった。

 

女になりたくなかった。だって、それは搾取される側だ。

 

誰かの唯一にはなれないだろう。自分が唯一を作れないから。

わたしの、この、孤独を、分かって、癒してくれる、パートナーは、多分、一生、現れない。

 

ずっとあそこで働いていて苦しかったのは、自分が性的少数者だったからかもしれないな。

 

 

お前と一緒にするな。結婚という制度に何の疑問も持たずに、結婚したいと言っているお前とわたしを一緒にするなよ。

 

 

崩壊はきっと止まない

(※冒頭に暴力表現があります)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

頭の中で、そいつに馬乗りになってその顔を殴る。殴って殴って、血だらけになった手でそいつの首を絞める。そいつの顔は血で赤くなって、首を絞められたことでも赤くなる。そうしてそいつは絶命する。おれは泣きながら立ち上がって、もう動かないそいつの頭を思い切り蹴り飛ばす。なされるがままのその体にまた憎悪が湧いて、もう一度蹴る。抵抗しない、叫び声さえ上げないその肉塊を前にして泣く。泣きながら、「おれの身体に呪いをかけやがって」と吐き捨てる。――そういう妄想を、もうずっとしている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

生まれてこの方「小さくない身体」というのをやったことがない。昔からずっと背の順は一番前か、よくて三番目だった。だからなのか、実年齢よりも若く見られる。もう立派なアラサーだというのに、未だにレジカウンターで年齢確認をされることもある。いつまで経っても実年齢に見られないことへのコンプレックスがずっと燻っている。

 

この身体が嫌いだ。

 

身長は152㎝と平均を大きく下回り、その身体の割に乳房が大きいことは自覚している。身体のラインが出る服を着ると胸が強調されてしにたくなる。「女」の身体、「女体」である己の身体を否が応でも見せつけられる。そこから逃れることはできないことも、同時に。

いつからこの身体を呪うようになったのか、その「呪い」をかけられた瞬間を、はっきりと記憶している。

おれの身体が「合法ロリ」と指をさされたあの時、おれの身体が下世話な話の俎上に軽々しくあげられたあの時、おれの身体がそれまで知識として知っていたその単語と結び付けられた、あの時。あの時には、こんな風に呪いとなってつきまとうものになるだなんて微塵も考えていなかった。

「人間」として生きてきたつもりだった。「女」でもなく、「女体」でもなく、「人間」だと。例えスカートを履こうとも、化粧をしてロングヘアであったとしても、おれはおれという「人間」として、生きてきたつもりだった。それがあの瞬間から崩れ落ちていった。がらがら、がら……。崩壊は未だに止まない。崩壊が止むことはきっとないのだろうと確信している。おれは、もう、おれの身体を取り戻すことはできないような気もしている。

 

「のはるさんって過激派ですよね」と時々言われる。これまで受けた理不尽、侮辱に怒りをあらわにすると必ず言われる。からかうかのように「怖いよお」とも。その度に思う。みんなどうしているというのだろう。己が受けた理不尽、侮辱をどうやって自分の中で処理をしているというのか。おれは怒りを殺意にすることでしか処理ができない。でも、それも面白半分に流される。「合法ロリ」だから?

 

本気で怒っているのに「怒ってる姿も小動物みたいで可愛いね」と言われた時の絶望と屈辱がどれほどのものか、みんな本当に”分からない”というのか?

 

これを「百合」というやつらは刺す

いつ“そう”思ったのか、“そう”しようと思ったのか、そこの記憶はすっぽり抜けている。何度か思い出そうとするのだけれども、その度に結論は「思い出せない」で終わる。

けれど、ずっと自らの鎖――というか重し、のようなものにしていることは事実だ。

「悪魔に魂を売ってでも、この女を守ると決めた」

「この女が悲しむような選択は絶対にしない」――と。

ここでいう「この女」というのは、幼馴染のことである。

 

 

 

幼馴染との出逢いは幼稚園の頃だ。その頃から仲が良くいつも一緒だった、というほどの距離感では(実は)なかったが、これまでの人生のほとんどを共有してきた相手は幼馴染だけだ。

幼稚園から中学校が同じで、スイミングスクールが一緒だった。幼馴染の元カレ(その時点で)の葬儀の時も寄り添っていたし、大学時代の通学時に電車内でうとうとする幼馴染によく肩を貸した(2人とも田舎の実家から都心に通っていた)。おれが新卒入社した会社で色々と泥沼に嵌って四苦八苦していた時も職場の罵詈雑言を辛抱強く聞いてくれていたし、退職後に転職ではなく大学院に進学することを、何も言わず受け入れてくれたのも幼馴染だ。幼馴染が今の夫からプロポーズを受けた時に(家族を差し置いて)最初に報告をした相手はおれだし、おれが今の会社から内定を貰ったのを最初に報告したのも幼馴染だ。

そんな幼馴染をおれは「おれの片割れ」「唯一無二の女」と勝手に定義づけているけれど、本人にそれを伝えたことは、実をいうと一度もない。“仲の良い「女」友達”として、適度な距離を保ち続けている。

その幼馴染が妊娠した。出産予定日は2ヶ月後、おれの誕生日の近くだという。

予感はしていた。まあ結婚して数年経つし、夏辺りに何週間か前から遊ぶ約束をしていたのに突然「具合が悪くて病院に行きたいから、遊ぶのキャンセルでいい?」と連絡を入れられたこともあったし。その後に出張土産を渡しに家まで行ったら、顔面蒼白で出迎えられたこともあったし。(自転車で10分の距離に住んでいる)

そう、だから分かっていたのだ。これまでと同じように「他の誰をも差し置いて、おれに真っ先に報告する」ということができない分類であることも。

遊ぶ約束をキャンセルされて以降、はじめてお茶をしたとき、幼馴染は自分からは何も言ってこなかった。だから「この間のことだけど、急に体調が悪くなるような要因が何かあったの?」と、ほとんど話さざるを得ないような状況を作り上げて、おれは幼馴染に「そう、実は妊娠5ヶ月目なんです」と報告をさせた。その時のおれの感情はどうだったかって?

正直に告白する。

「無」だった。

まさか「悪魔に魂を売ってでも守る」と決めたはずの幼馴染に対してこんな感情を抱くとは思っても見ず、そのことに逆に動揺した。え、本当に?というような感じで。もっと彼女の夫に対して嫉妬すると思っていたのに(おれの幼馴染だぞ!的な感じで)おれの胸中は大変に穏やかだった。子どもができることはおめでたいことだと分かっているが、おれ自身が子どもを産まないと決めていることもあって(これを幼馴染に話したことはない)心の底から湧き上がる「おめでとう!!!!!!」というような気持ちもなく、「ああそうなの、やっぱりね。まあこれに関しては言う順番があるし、安定してからじゃないと公言できないもんね」とあっさりと、なんてこともないように告げた。「うん、そうなの。さすがね、分かってくれてるね」と言った幼馴染が少し嬉しそうに見えたのは、そうみたいおれの願望だったかもしれない。

 

 

 

妊娠したとはっきりと告げられた後から湧いてきた感情は、きっと自分の中で作り上げた「物語」だ。

「子どもが産まれたら、本格的に“家族”になる。その中におれは入っていくことはできないから寂しい」だとか。「離婚して母子家庭となったところで、その後の人生の相棒としておれを選んでくれないかな」とか。そう思うことによって、おれは誰かを愛せる人間だということをおれ自身に証明したいのかもしれない。

幼馴染が夫と別れることはないだろう。夫は幼馴染にベタ惚れだし、何だかんだ文句を言いつつも、幼馴染も夫を信頼していると思う。人生に何が起きるかわからないけれど。でも、そう確信している。

 

 

 

そういう「設定」だと分かっている。幼馴染が大事であることも悲しい思いをしてほしくないことも事実だが、「悪魔に魂を売ってでも守る」といって幼馴染に執着するふりをして、そういう「設定」にして、そうしてどうにか生きようとしていることは分かっている。空虚だな、と思う。孤独だな、とも思う。人生のほとんどを共有してきた相手にすらこうなのだ。おれはきっと、本当の意味で誰かを愛せることはないのだろう。そう感傷に浸りながら、それでもその「設定」で生きていく。そう決めたのだ、おれは。

 

 

どこにだってある、どこまでもある

上長を怒らせてしまった。
おれが悪い。ミスと確認不足が重なり、それを修正する為に、 忙しい中で別部署の上長に話を通してもらった。 お互いが悪いという痛み分けの方向で話が落ち着いていたのに、 最後の最後でおれがやらかした。 上長の気持ちを考えない言動をしてしまったのだ。
指摘されて肝が冷えた。あ、やっちゃった。 人を怒らせないようにと生きてきたので「人を怒らせてしまった」 という事実に、背筋が凍った。
謝罪して、それでその場は済んだ。 きっとこれを上長は引きずらないだろうとは思う。
だがしかし、もやっとする。


入社してから初めて上長に怒られた。 それまでも色々とやらかしていたが、 上長は冷静に対処に当たってくれていた。おれは一体、 いつこの人に怒られるのだろうと、 ぼぅっと考えていた矢先のことだったのだ。


なぜこのタイミングで怒ったのか、と考える。
何も言わずにいたけれど、 これまでもこういう怒りポイントはあったのだろうなと思う。
実はその怒りポイントに、心当たりがいくつかある。 総じて自分が悪いと思う。 相手の気持ちを考えた言動ができていなかったから。
だけど、直後に思った。
おれもアンタに言いたいこと、ひとつあるんだが?と。


入社2ヶ月目、とても大きな展示会に参加した時。アンタはおれを「人間」ではなく「 女体」として、客引きをしようとした。
おれの性自認がFtXでなかったとしても、 あれは完全アウトなハラスメントだった。

しばらく引きずった。何ならその週明けは急遽在宅勤務にした。 ふと気持ちが切れて涙が出てきた時、 周囲にどう誤魔化せばいいのかわからなかったのだ。
実は、未だに周囲の誰にも言えずにいる。話すことはカミングアウトに繋がるのだ。おれはカミングアウトをできればしたくない。話した相手の反応が怖くてたまらないから。


こうやって色んな要因が絡まり合って、 おれはあれで深く傷ついたことを、未だに誰にも言えずにいるのに。

時たま思い出してしまって、ひとりで泣くのに。
同時に、 昔別の男から言われたことも思い出してしまうというのに。


アンタは言うんだな。言えるんだよな。
おれは誰にも言えずにいるのに。


ここに確かにある力関係、優位性をそうやって読み取って、 もやっとしてしまう自分が嫌だ。ただ“上長を怒らせてしまった。 自分が悪い。次から気をつけよう”とすればいいのに。


自分が悪いと思っているなら、こんなものを書くなよ。なあ。

 

この身体が嫌いだ

この身体が嫌いだ、とわかった。そう実際に頭の中で文章にすることでようやく納得がいったのかもしれない。「この身体が嫌いだ」。

小柄で、乳房があって、子宮があるということ。「女」の身体であるということ、そしてそれをおぞましく思っているのに誰にも言えないこと。これを告白したら、きっと家族を傷つけるということ。それが怖い、傷つけるということが苦しい。なぜおれはこうして生まれついてきてしまったのだろうと思うこと。それそのものが憎い。

誰かに言いたい、分かって欲しい、身体を。

身体を脱ぎたい。

この身体が嫌いだということ。

 

随分昔、自死したトランス男性の遺族の記事を何かで読んだ覚えがある。彼は生前、自らの乳房を搔きむしりながら「この身体がいやなんよ」と家族に叫んだことがあったらしい。その気持ちがよく分かる。この身体は自ら望み、選択した身体ではない。身体を脱ぐことは不可能だということが、よく、わかる。

 

先週半ばから終わりにかけて、仕事で展示会に出展することになっており、入社二ヶ月目の自分も訳が分からないまま参加していた。誰もが知る大企業から中小企業まで多くの企業が出展しており、まさしくお祭り騒ぎのような熱気で会場内は賑わっていた。

大勢が訪れるああいう展示会で、来場者に興味を持ってもらう為に企業がやること。

肌の露出の多い女性を、ブースの入り口に立たせて客引きをする。

なんとグロテスクな光景だっただろう。客寄せとして利用される「女体」、それを利用して呼び込み営業をする「男」たち。この「男」には女性も含まれる。「男」として、「男」と同じく「女体」を使う。そこに性差はない。

それも一つや二つではない。人件費をさける大企業はむしろ積極的に行っていたように思う。

ああいう光景をもう見たくなくて、今の会社に入ったのに「女性が前面に立っていた方がいいから、君も前面に立ってほしい」と上長に言われたことがとても苦しかった。

頼む、頼む、辞めてくれ。己の身体は己のものだけだから。誰かに差し出すものではないのだから。だからそんなことをしなくていいのだと、彼女たちひとりひとりに言って回りたかった。そこに金銭が発生していることが、また、なんと惨い。

 

そもそも、自分は「女」ではないのに。

身体を脱ぐことができたら、この身体を真の意味で愛せるのだろうか?