2011.3.11

 

2011年3月11日。わたしはまだ高校生で、あの日は学期末テストの二日目だった。午前中で試験は終わって、土日を挟んで残り二日分のテスト勉強をする為に、地元の図書館の自習室でテキストと睨みあっていた。当時から周囲を遮断をするために音楽を聴きながら勉強をしていて、耳にはイヤホンをつけていた。

集中力が切れながらもテキストを解いている途中に、ふと、揺れが来るな、という予感があった。そこから今まで経験したことのない強い揺れが来た。自習室に並んだ折り畳み式の机は強い揺れの影響でいくつか崩れおち、自習室にいるひとたちの動揺はみな同じく激しかった。怖くなったわたしはイヤホンを引っこ抜いてテキストを閉じたものの、学校で耳にタコができるほど教え込まれていた「地震が来たら机の下に隠れましょう」をせず、その場から動けなかった。心臓の動悸が激しいことだけがわかっていた。

揺れが収まったころ、周りと同じように窓の外を見た。電線が大縄跳びの縄のようにぶんぶんと振り切っていたこと、電柱や信号機が信じられない動きで揺れ続けていたのを見て、何か大変なことが起きていることだけはわかった。

図書館の職員が自習室に駆け込んできて、全員館外に出てほしいと叫んだ。避難だ。誰も文句も言わず、かといって混乱もすることなく外に出た。「どこが揺れたんですか」と尋ねる利用者に「どうやら宮城の方みたいです。東北の方」と職員が言っていたのを覚えている。

しばらく外で待機をして、館内に再度入ることができたとき、そのままテスト勉強をしようなんて頭になかった。一刻も早く家に帰らなければと思って荷物を急いでまとめていると、わたしと同じようにテスト勉強をしていた親戚の女の子が「のはるちゃん」と声をかけてきた。その時に、この場に彼女がいたことにようやく気付き、わたしたちは「一緒に帰ろう」と声を掛け合って、二人で自転車を漕いで帰った。町の様子はいつもと特に変わっていなかった。どこかが崩れ落ちていることもなかったし、信号機が消えているところも特になかったと思う。

ただ、今まで経験したことのない揺れに「怖かったね」「貴女がいてよかった」「気を付けてね」と言って別れ、わたしたちは家に帰った。

「おかえり」

帰ってきたわたしに母はそう声をかけた。リビングには母と祖父母、そして姉が身を寄せ合うようにいて、全員でNHKを見ていた。そこに映っていた映像――冷静そうに話しながらも動揺を抑えていることがわかるアナウンサーの姿、消えることのない左下の日本地図、震源はどこで、これから津波がやってくること――それらを見て呆然としていた。

何かが起きている。日常を暴力的に奪い去っていく“何か”が。

でもそれを上手く認識できなかった。この日のことが、どれだけ今度の自分に影響してくるのかも。

残り二日の学年末テストは中止になり、地震で崩れた線路の復旧や計画停電なんかもあって、学校に行けたのは二週間後のことだった。「怖かったね」「大変だったね」なんてことをクラスメイトと言いながら、お互いの無事を確かめあった。そうして、わたしは日常に戻っていった。「生活」を続けていった。

 

 

 

あの日のことを思い出す度に、わたしは自分の幼さを思う。とても怖くて辛いことがテレビの向こう側で起きている、というあまりにも幼い認識しかもつことができなかった。原発事故のことも津波のことも、その「とても怖くて辛いこと」の一括りでしか当てはめることができなかった。その中身がどんなもので、どれだけの人が苦しみ、心に深い傷を負ったのかということを。正直、今でも分かっていないかもしれない。こういうことを、ここでこうして書き連ねているということが、ひとつの証明だろう。わたしは被災者ではなく、あの日を対岸の火事として眺めているだけの人間だということを。

 

「戒めとして書き残しておく」という言葉は免罪符にはならない。「あの頃は幼かったから」という言葉も。分かっていながらも書いてしまう、自らの愚かさを見つめながら、この愚かさからは目を逸らしてはならないと、せめてもの気持ちで、これを書き残しておく。