この身体が嫌いだ
この身体が嫌いだ、とわかった。そう実際に頭の中で文章にすることでようやく納得がいったのかもしれない。「この身体が嫌いだ」。
小柄で、乳房があって、子宮があるということ。「女」の身体であるということ、そしてそれをおぞましく思っているのに誰にも言えないこと。これを告白したら、きっと家族を傷つけるということ。それが怖い、傷つけるということが苦しい。なぜおれはこうして生まれついてきてしまったのだろうと思うこと。それそのものが憎い。
誰かに言いたい、分かって欲しい、身体を。
身体を脱ぎたい。
この身体が嫌いだということ。
随分昔、自死したトランス男性の遺族の記事を何かで読んだ覚えがある。彼は生前、自らの乳房を搔きむしりながら「この身体がいやなんよ」と家族に叫んだことがあったらしい。その気持ちがよく分かる。この身体は自ら望み、選択した身体ではない。身体を脱ぐことは不可能だということが、よく、わかる。
先週半ばから終わりにかけて、仕事で展示会に出展することになっており、入社二ヶ月目の自分も訳が分からないまま参加していた。誰もが知る大企業から中小企業まで多くの企業が出展しており、まさしくお祭り騒ぎのような熱気で会場内は賑わっていた。
大勢が訪れるああいう展示会で、来場者に興味を持ってもらう為に企業がやること。
肌の露出の多い女性を、ブースの入り口に立たせて客引きをする。
なんとグロテスクな光景だっただろう。客寄せとして利用される「女体」、それを利用して呼び込み営業をする「男」たち。この「男」には女性も含まれる。「男」として、「男」と同じく「女体」を使う。そこに性差はない。
それも一つや二つではない。人件費をさける大企業はむしろ積極的に行っていたように思う。
ああいう光景をもう見たくなくて、今の会社に入ったのに「女性が前面に立っていた方がいいから、君も前面に立ってほしい」と上長に言われたことがとても苦しかった。
頼む、頼む、辞めてくれ。己の身体は己のものだけだから。誰かに差し出すものではないのだから。だからそんなことをしなくていいのだと、彼女たちひとりひとりに言って回りたかった。そこに金銭が発生していることが、また、なんと惨い。
そもそも、自分は「女」ではないのに。
身体を脱ぐことができたら、この身体を真の意味で愛せるのだろうか?